清水羊羹とは

平安時代、天台第三祖慈覚大師円仁が遣唐の帰途、現在の島根県安来市清水町に立ち寄られ、
唐で召し上がった羊の肝料理の話をされました。人々が再現したその料理は、
やがて時を経て精進料理となり、清水羊羹となりました。
鎌倉時代末期、当堂祖先は瑞光山清水寺より、清水羊羹製造の、門外不出の極伝を授けられ、
これを名誉とし、清水羊羹元祖として、以後研究改善を重ね、今日に至ります。
製餡から包装まで一貫して自社工場で製造し、お客様に安心して召し上がっていただけるよう
努めております。


添加物を一切使用しない素朴な味と美しい艶、滑らかな口あたりを、どうぞお召し上がり下さい。

 

羊羹の歴史

時代は定かではありませんが、昔、日本では熱い吸い物のことを 「あつもの」と呼んでいました。
一方、中国では、小羊(羔)を用いた料理に「羹」の字をあてていました。
肉に菜を加えたこの吸い物が中国から日本へ伝わり、時を経て次第に 日本化し、
貴族社会などで食べられるようになると、この吸い物に 「羹」の字を当てるようになりました。

時代が変わり、中国では羊や豚、鶏など様々な動物を入れた羹が食べられていました。
そのころ勉学のために日本からやってきた禅僧たちがこの羹を日本にもたらすと、
肉食が禁じられていた禅院では、肉の代わりに小豆や大豆、米や小麦を使ってこの料理を再現し、
やがて点心として食べられるようになりました。こうして、羊の肉を見立てて作られたこの料理は
「羊羹」と呼ばれるようになりました。

鎌倉時代から室町時代にかけて茶の湯が盛んになると、羊羹から汁が消え、料理の一品となり、
やがて茶の湯の菓子へと姿を変えました。
この頃から現在のような甘味と風味になったと考えられています。

江戸時代の初めには、羊羹は点心から独立し、菓子になりました。
ただ、当時の羊羹は現在の羊羹とは違い、いわゆる蒸し羊羹でした。

薩摩藩主島津光久が伏見の宿屋、美濃屋に宿泊したとき、 宿屋の主人である美濃太郎左衛門は、
数日前戸外に捨てた心太が透明な乾物になっているのを見つけました。
凍結と融解を経たこの乾物には臭みがなく、やがて「寒天」と呼ばれ、羊羹の原料の一つとして
使われるようになりました。
江戸時代後期の、こうした寒天の発見によって、羊羹は現在の姿になったと言われています。

前述の通り、羊羹は遣唐使として唐に渡った禅僧たちが帰国後伝えた肉入りの吸い物が
精進化したものです。
ここ清水町にその料理を伝えたのは天台第三祖慈覚大師円仁でした。
当堂祖先は鎌倉時代末期に清水寺から羊羹製法の極伝を賜り、以後研究改善を重ね、清水羊羹元祖として
現在に至ります。

(※)羊羹の起源には諸説あります。

 

瑞光山清水寺

出雲三十三観音第二十一番札所となっている瑞光山清水寺は、鰐淵寺、三仏寺、大山寺と並ぶ天台宗の
古刹です。寺伝によると、587(用明天皇2)年に尊隆上人が開いたと言われています。

こんな説話が伝わっています。

尊隆上人がこの地を遊行していた折、山頂に瑞光を認め赴いてみると、一人の翁がいました。十一面観世音菩薩の化身であったその翁に感得した尊隆上人は、この地に草庵を築き、十一面観世音菩薩を祀りました。すると草庵の側から清らかな泉が湧き出したので、瑞光山清水寺と名付けました。

 

平安時代前期には40を越える伽藍を構え、天台霊場として栄えました。この時期の仏像彫刻も数多く伝えられています。戦国時代に毛利・尼子氏の庇護を受け、江戸時代には松江藩主堀尾氏から寺領100石を与えられました。伽藍は、戦国時代に兵火により根本堂を残して消失しましたが、江戸時代に復興され、現在に至っています。現存する最古の根本堂は、室町時代初期の様式を伝えており、1987年~92年に解体修理が行われ、柱の枠肘木に「明徳四(1393)年」の墨書が見つかったことで建立時期が明らかとなりました。